木の実が、たくさん落ちている・・・秋なんだなあ。森の側の道路を掃除するようになって四季を感じる。枯れ葉は年中落ちるが、木の実はやはり秋しかない。
台風が去って、木の実が落ちている。集まってくる鳩、きょうは2羽だけだった。1羽は足を怪我しているようだ。木の実を食べては、腹を地面に着けて休む。傷ついていても食べなくちゃね。
先日、新聞社時代ほぼ同期の書いたブログを見た。たくさん思い出が詰まっている。彼は優秀で、たくさん表彰を受けている。残念ながら、私は負の思い出が多い。
新聞のカラー化、コンピュータ編集システムの構築など、一から勉強しなければならなかった。一番苦労したのは、一般紙との違い、私はスポーツ新聞だった。レイアウト重視の新聞だ。私の勤めていた会社は一、般紙の傘下にあった。
何をするにも一般紙の方が優先。いくら説明しても「そんな機能はいらない」と言われるばかり。もう一つ、当時は新聞社ごとに字体というものがあって、少しずつ違っていた。何万もある字、それを作るのが納得いかなかった。
そんなことに何億円?もかける必要があるのか。汎用されている文字に少し手を加える程度なら、パターン(扁平率など)を決めれば、自動的にできるのではないか。誰がどうして、金はどこへ・・・。そんなことよりDTPがやっかいだった。デスク・トップ・パブリッシング、画面上で画像や文字の編集作業が一度にできるシステムだ。
いまでは当たり前だが、当時は写真や大きな見出しは、別作業で作っていた。これは活版印刷の名残り。デザイン系はマック作業が業界の常識だった。写真の加工、見出しは別の部署で作り、編集用のPCで合体させていた。
それでも一部には編集作業ができるソフトもあった。私はそっちに興味があり勉強していた。早すぎたのかな、当時としては?今では当たり前になったけどね。
画像と活字が一緒に編集ソフトの導入か、開発を強固に提案し続けた私。その時の敵方、反対者に後に、身に覚えのない罪を着せられ、クビになりそうになった。恨みを買ったのだねえ。バカ呼ばわりしたからなあ。
コンピューター・ダウン!コンピューター編集になった初期には、よくコンピューターが動かなくなった。新聞社のやってはならないこと①欠配(配達ができないこと)②遅配(遅れること)が編集の決まりだった。
コンピューター・ダウンで編集ができない。新聞が作れない!さあ、どうする。待つしかないのだが、回復した時の手順が大切だ。一般紙の傘下だったので、そっちが優先。私は編集長に相談して、遅れを少なくするためにモノクロでもいいと了解をとった。その上で、カラーの作業もしていた。
コンピューター復活、締め切りギリギリ。カラーもOKになった。私はカラーで発行できた。一般紙の方は・・・モノクロだった。翌日、問題になった。賞罰委員会なるものがあって、なぜモノクロの新聞になったか?の悪者探し。「傘下であるスポーツ新聞の私がカラーで発行したのが原因」ということに。
委員会に呼ばれ、事情を聞かれる。重役が並ぶ席で「カラーをやっていい、と言われたので作っただけ」と説明。逆に「私がカラーで新聞を出せ、と命じたら皆さんはやりますか?命令の出す所が違うと思う」とまで言った。一般紙の整理部(見出しやレイアウトをする部署)の準備不足だと。
結局、私の責任にした人物が左遷された。その後数年くらい経って、また大規模なシステム・ダウン!一般紙の整理部の部長さんたちは、復旧を待っているだけ。傘下の私たちは、優先順位を守るために、一般紙のカラー優先、モノクロ準備を部下にさせた。
またもギリギリで復旧。一般紙はそのままカラーで印刷、配達時間を考えて割を食うのはコチラ。一部モノクロになった。遅配も最小限度で済んだ。復旧した時に一般紙を含めて幹部が集まった。
私は、一般紙の部長たちに怒鳴った「欠配、遅配をなくすために努力したのか!」。シーン・・・ま、そんなこと私が言うセリフじゃないだろうみたいな。
後日、反省会があった。そこで偉い人が「あんな状況で、良くカラーで新聞を出してくれた」。復旧を待っていただけの一般紙部長たちが褒められていたのだ。皆の視線が私に・・・。私は何も言いませんよ。こんな会社だ、と思っただけ。
会議後、制作部門(コンピューターや輪転機)の責任者が私の肩を叩いてニンマリ。事故後、怒鳴った時は不在で顛末を聞いて知っていたという。私に怒鳴られた部長さんたちが出世して、子会社などの社長になっている。こんなもんさ。
以上、愚痴でした。
※駄句
傷鳩や片膝着いて木の実食ふ(天愚)